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◆◆◆◆◆◆うな重(鰻丼)◆◆◆◆◆◆


鰻丼(うなどん、うなぎどんぶり)は、丼鉢に盛った白飯の上に鰻の蒲焼を乗せた日本の丼物。江戸・東京の郷土料理とされる日本料理の一つである

。 丼鉢に飯をよそってタレをかけ、鰻の蒲焼を載せる。地域によっては上からさらに飯を盛り、鰻を覆い隠すこともある。薬味には粉山椒、箸休めとして奈良漬などの漬物、肝吸いなどが添えられる。「丼」という名称であるが、陶磁器ではなく丸型の漆器の椀が使用されることも多い。

タレは醤油とみりんを主として作られ、多くの店では少しずつ継ぎ足しながら大切に使用される。鰻から出る脂や旨味、焦げた皮や炭の香りが加わることでコクや深みが生まれ、老舗ならではの味へと熟成されていくという。

山椒の粉は食べる直前に振りかける。山椒は脂の多い鰻をさっぱりと食べるための工夫であり、消化を助けたり泥臭さを消す効果があるとされる。 国産の鰻が高値であるため、鰻丼の値段も高く設定されている場合が多い。値段に幅はあるものの、安いものでも1000円台。高いものだと10000円を越すものもある。これらの理由から、「高級な日本食=鰻丼」を思い浮かべる人も多い。

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丼飯の歴史の中で最も古く、文化年間(1804-1818年)に誕生したとされる。

由来には諸説あり、宮川政運の「俗事百工起源」(1885年)には、堺町(後の東京人形町)の芝居小屋「中村座」のスポンサー大久保今助が、蒲焼きが冷めないように、丼飯の間に挟ませて芝居小屋に届けさせたのが、鰻飯の起源と書かれている。この大久保今助による鰻飯の起源となったのは、茨城県龍ケ崎市にある牛久沼である。

ただし、青葱堂冬圃の「真佐真のかつら」(1857年)には、著者の幼少時に葺屋町(堺町の隣町)の裏長屋で鰻丼が売られていたとの記述もあり、大久保以前に同じような工夫をしている人がいたことが過去の文献からはわかっている。

江戸時代の蒲焼きはタレを付けて焼き上げた地焼きだったが、明治時代になると焼く過程で蒸す方法が取り入れられ、大正時代には蒸す技術が確立された。そうすると、飯の間に蒲焼きを挟むと二重に蒸すことになり、東京では中入れタイプの鰻飯は姿を消し、現在のようにウナギはご飯の上に乗るようになった。

鰻丼のはじまりの頃は、焼いた鰻が冷めぬよう飯と飯の間に挟み、飯の上にも載せるスタイルが一般的であったが、江戸の鰻は蒸して柔らかく仕上げるため身が崩れやすく、しだいに飯の上に鰻を載せるのみとなっていった。これに対し関西ではあらかじめ鰻を蒸すことがないため身が崩れず、その結果飯のあいだに挟むスタイルが現在に至るまで残ったとされる。

明治時代になると、鰻飯は鰻丼(うなぎどんぶり)とも呼ばれ、まもなく鰻丼(うなどん)と略称され、名が定着した。さらにウナギが重箱に盛りつけられるようになると、うな重と呼ばれ、鰻丼よりも見栄えが良いことから鰻丼の人気を凌ぐようになった。

まむし 近畿地方では鰻丼のことを「まむし」と呼び、「真蒸」などの字が当てられることもある。語源は鰻飯(まんめし)が訛ったとする説や、飯に鰻やタレをまぶした「まぶし」から転じたという説、鰻を飯の間に挟んで蒸らす意の「ままむし(飯蒸し)」もしくは「まむし(間蒸し)」に由来するなどの説がある。丼鉢や重箱でなく飯櫃に盛り付けたもののことを、近畿ではひつまむし、中京地方ではひつまぶしと呼んでいる。蛇のマムシ(蝮)とは無関係であるが、これに由来するとする俗説が語られることもある。

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鰻飯
鰻丼は、鰻飯(うなぎめし、まんめし)とも呼ばれる。江戸時代後期の風俗を記した守貞謾稿には、京都大阪では「まぶし」、江戸では「鰻丼飯」の略として単に「どんぶり」という呼称が一般的であったと記されている。

鰻重
食器として重箱を用いる場合は鰻重(うなじゅう)と呼ばれる。鰻丼との違いは器のみであるが、鰻丼と鰻重の両方を置く飲食店においては、一般に鰻丼よりも鰻の量が多く、肝吸いや小鉢などの付く上位メニューとして位置付けされている。 鰻丼や鰻重には「上」や「特上」といったランク付けがあるが、これはうなぎの量の違いだけで、質は基本的に変わらない。これは鰻の仕入先が通常は一箇所からのみであるためで、産地の異なる鰻を用いる場合はその旨が特記される。

鰻重とは、御飯と鰻の蒲焼を下から「飯」「鰻」「飯」「鰻」と交互に重ねる「鰻重ね」を意味したという説もある。


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